【窮鼠】幸福観の押し付けへの問題提起【映画『窮鼠はチーズの夢を見る』のメッセージ性】
エンドロールが流れた瞬間、救いのある続編を渇望した。
不完全燃焼のまま呆然と映画館を後にしたあの日を忘れはしない。
"よく分からない作品"のまま記憶の隅に追いやった映画『窮鼠はチーズの夢を見る』のラストが、急に意味のあるものに見えてきたのは、某区議の発言がきっかけだった。
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一見すると意味がわからない、あのラストシーン。
今ケ瀬と生きていくつもりでたまきちゃんとの婚約を破棄、涙するたまきちゃんを置き去りにして家に戻ったら今ケ瀬に逃げられていて、最終的にポツンと孤独になった恭一が映し出されて終わり。
不安定でフラフラと逃げていく今ケ瀬のことは諦めて、たまきちゃんと結婚した方が幸せだったのでは?
…どうしてもそう感じてしまう。予定通りたまきちゃんと結婚しておけば、すべてがうまくいっていた。今ケ瀬が"恭一の人生を自分が壊した"という罪悪感に苦しむこともなかった。
それなのに、部屋に一人ぼっちな恭一は異様に幸せそうな顔をしている。
ここで、『そもそも私達がこれまで信じてきた幸せとは何なのだろう?』という根本的な問いが生まれるわけだ。
果たして、一般的な『幸せな人生』のルートから外れた人は本当に不幸なのだろうか?
一見すると当たり前の順調さからかけ離れていて苦労が多いように見えるかもしれない、でも当事者にとってはそれこそが幸せな選択。
LGBT当事者にとっての幸福は、(悲しいことに現時点では)世間からしたらそういうものなのだろう。
このラストシーンが不幸でしかないという認識をまず捨てることが、多様性の尊重の第一歩なのかもしれない。
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仮に、原作通りの結末を実写化していたらどうなっていただろう?
原作の結末は実際に映画化された結末よりずっと救いがあるが、鑑賞後の感想としては『いろいろあったけど結ばれてよかったね』くらいしか出てこないのではないだろうか。
史上類を見ない高い注目度の中で、結末を書き換えてでも伝えたかったこと。それは、一般的な幸福観の押し付けを問題視する意識だったのかもしれない。
『訳が分からない』『報われないのなら観なきゃよかった』などと酷評されるリスクを孕みながら、それでも世間の幸福観を塗り替える革命を果敢に試みた。
そんな意義のある作品だと今では思う。