内懐の

知ってほしいと思いながら、知られたくないと思っている…

【窮鼠】明日、○○が終わるなら…窮地での希望的観測とルターの名言【漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』と日本語鑑賞】

『窮鼠はチーズの夢を見る』って、『たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える』になんだか似ているよな…という話をしたい。

明日、世界が終わるなら…

たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

ドイツの宗教改革者・ルターが遺したこの言葉から、私達は多くのことを学ぶことができる。

  • 希望を捨てないことの尊さ
  • 世界が終わる瞬間まで他者や世界への気遣いを忘れずに(人間は自分に危機が迫ると、我が身を守ることに夢中で周りが見えなくなってしまうものである)
  • 世界の終焉に動揺し、焦りや恐怖に囚われて死を迎えるよりも、当たり前の日々を最期まで噛み締める方が幸せである

etc.

このように、この言葉の一般的な解釈には"終わりを受け入れる強さ"が感じられる。

…ところで、私達はこの言葉を『凄い人が言った凄い言葉』という先入観を持って見てしまいがちだが、一度そのような先入観を取り去ってみたい。

世界の終焉目前に林檎の木を植える人は強い人だとは限らない。

たとえば、世界終焉の予言を知ってもなお『世界が明日で終わるなんて嘘に決まってんだろw』と余裕をかましている人もまた、ルターと同じように平常通りの生活を続けるのである。ガーデニングを趣味とする人なら、その日も平常通り林檎の木を植えるだろう。

このように、世界の終焉目前に平常通り林檎の木を植える人は、

  • 終わりを受け入れた上で今を大切にする人
  • 終わりが来るという現実から逃避している人

の2通りに分かれるのではないだろうか。

そして、『窮鼠はチーズの夢を見る』で描かれる大伴は明らかに後者だ。

今ケ瀬に限界宣言をされたにも関わらず、

結局またずるずると今までどおりの日々が

…なんて呑気に考えているのだから。
今ケ瀬に何を言われても、大伴にとっては『どうせ終わらないでしょ』という解釈にしかならない。
今ケ瀬が隣にいる明日が来ないことを察知できる状況ではあるのに、呑気に明日を夢見ているのだ。

『窮鼠はチーズの夢を見る』というタイトルを紐解く

窮鼠とは『追い詰められた鼠』であるので、たとえば鼠の目の前に猫がいるシチュエーションを考えてみよう。

鼠は明らかに死が迫っているにもかかわらず、『なんとか生き延びられるんじゃないか』と現実逃避をする。
だから呑気に明日の飯を夢見ている。
明日が来ないことを容易に察知できる状況なのに、その先も変わらず生き続ける前提でいる。

…窮鼠とは言うまでもなく"今ケ瀬に関係の終わりを示唆されたときの大伴"の喩えであろう。

この意味で、『窮鼠はチーズの夢を見る』という文は、『たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える』に似ている。
しかし、これは名言としての捉え方から離れた拡大解釈をした場合の話だ。

面白いのは、『窮鼠はチーズの夢を見る』の時点では拡大解釈にしか当てはまらなかった大伴が、その続編『俎上の鯉は二度跳ねる』のラストシーンにおいて真にルター的な思考の持ち主に進化するということだ。

明日、世界が終わるとしても

一方の今ケ瀬は、終わりが来ることの恐怖に耐えかねて『どうせ明日で世界が終わるなら、今すぐここで死んでやる!』と考える人間ではないだろうか。実際、『どうせ続かないから』という理由でさっさと大伴と縁を切ろうとする。

『俎上の鯉は二度跳ねる』のラストシーンで、大伴は近い将来に終わりが来ることを悟った上で、それでも今ケ瀬と共に生きる決意をする。

お前はいずれ投げ出すだろうな
疲弊しきって 今度こそ本当に俺から去る時が来るだろう

それでもいいよ
俺はお前の背中を見送る
この恋の死を 俺は看取る

そこまでの死出の道を
ひとつでも多くの花で飾ってあげよう

終わる可能性から逃避して楽観視ばかりしていた大伴が、終わりを受け入れた上で限りある時間を大切にしようと誓った。
そしてこのラストシーンは、自暴自棄になる今ケ瀬に対して、大伴が暗に次のような諭しをしているようにも見えるのだ。

明日、この関係は終わるかもしれない。
それでも、関係の終焉に動揺し、焦りや恐怖に囚われて終わりを迎えるよりも、当たり前の日々を最期まで噛み締める方が幸せである

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ルターの言葉は、世界の終焉という大袈裟な話題でなくても、いくらでも小さなスケールの話に縮小して語ることができる。
とある2人の人間という、極めて小さな世界。そんな小世界の終焉予告があえて何度も可視化されているこの作品から、ルターの言葉を連想したのはごく自然なことだったのかもしれない。


※歴史的な事柄を取り上げるにあたって
ここでは、『何故リンゴなのか?』『本当にルターが言った言葉なのか?』という歴史的な考察は取り上げず、人生訓としての解釈にのみ焦点を当てた。
明らかな拡大解釈(ひねくれた解釈)ではなく、ルターの言葉を純粋に人生訓として捉えた解釈を『真にルター的な思考』と称したが、もちろん、ルターの真の意図を正確に知る者は現代には存在しないだろう。