内懐の

知ってほしいと思いながら、知られたくないと思っている…

【囀】Don't stay goldは『囀る鳥は羽ばたかない』本編の縮図かもしれない

※このブログは7巻読了時点で書いています。7巻のネタバレを含みます。

※以降、Don't stay goldのことをドンステと呼ぶよ

『囀る鳥は羽ばたかない』はなぜDon't stay goldから始まるのか? 一見関係のないようなスピンオフから物語が始まるという不思議な構成。ヨネダ先生のことだから、これには絶対に意味があるだろう。

矢代と久我の共通点

久我ってなんだか矢代っぽいよなあ。性格は全然違うけど、いろいろと共通点が多い。

・男も惚れ惚れするほどの美形 ・家庭環境があまり良くないが故に、影山が触りたくなるような煙草の押し付け跡が体に刻まれている

影山と百目鬼の共通点

矢代いわく、百目鬼は高校時代の影山に似ているらしい。というか、読者からしても顔が酷似している。 そして影山も百目鬼も、矢代が性的対象になることはないという点で共通している。(百目鬼に至っては過去の話だが…)

久我の不可解な台詞

個人的に不可解に聞こえたのが、久我が影山家を去る際に言い捨てた『じゃあな、インポ野郎!』という台詞。

…あれ、影山ってインポだったっけ?

そんなはずはない。『当たってるしよ、硬ぇのが…』という久我の発言の時点で影山の機能は正常であるはずである。

だとしたらなぜこの台詞をわざわざ久我に言わせたのか。もしかしたらこの時の影山は、別な誰かの象徴であるのかもしれないという仮説が思い浮かんだ。

囀の登場人物でインポといえば…

ドンステと本編を見比べてみる

本編を読んでいると、『なんか似たようなことを誰かが言っていたような…あ、そういえばドンステで』というような発見が頻繁にある。

ドンステ久我『汚ねえし、俺の体』↔ 矢代の内心

久我にとっては外見的な話だが、矢代にとっては内面的な話になるのかもしれない。 久我は矢代の心の声をすべて口に出してしまう人物なのでは?

ドンステ久我『アンタのそういうとこが 俺はどうにも好かねぇよ』↔ 5巻矢代 お前のそういうとこが、ほんとムカつく…

ドンステ久我『すっとぼけんじゃねーよ 俺で興奮したくせに』↔ 5巻矢代 興奮してたんだろ?

ドンステ影山『端的に言うと俺は逃げた 惚れてしまいそうだった』↔ 6巻矢代の内心

だがもう既に惚れてしまっていた。

ドンステ影山『手に負えないと思えた』↔ 5巻矢代 お前をどうにもできない

ドンステ矢代『お前なんで久我を遠ざけた?』↔ 7巻綱川

ドンステ矢代『まあ 久我のことは俺が可愛がってやるからさ』↔ 8巻以降で綱川がそんな感じのことを言い出しそうな予感がする(実際、綱川さん相当百目鬼のことを気に入っているよね)

ドンステ『俺の体好きか?』『あぁ、全部舐めたい』↔ 5巻の情事

ドンステは本編の縮図かもしれない

今のところ囀の本編は、大まかにDon't stay goldのストーリーを辿っている。

突然出会った久我と影山。着実に距離を縮めて恋人チックなことに及ぶも、『手には負えない』と影山は久我を手放す。そこに矢代が現れて…

突然出会った矢代と百目鬼。着実に距離を縮めて恋人チックなことに及ぶも、『どうにもできない』と矢代は百目鬼を手放す。そこに綱川が現れて…

といった具合に、だ。

Don't stay goldは本編の予告編、すなわち本編のストーリーを爆速でなぞったあらすじなのかもしれない。 しかし、久我=矢代、影山=百目鬼という単純な対応ではなく、言うなれば久我と影山がいろいろな役を演じているようなイメージだ。

この仮説には何の根拠もない。『そうだったらいいな』というただの希望的観測である。 だってDon't stay goldが本編の縮図なら、矢代と百目鬼の行く末は…

【南ビール】岸楢の恋愛観のズレ、そしてリレーが物語る転機【アイツのBLマンガ105話考察】

『アイビー沼地』というブログを閉鎖するにあたり、こちらにお引越しした記事です。2020/5/15に書かれました。

  • ⒈相反する恋愛観

岸楢編になってからやけに少女漫画っぽい雰囲気を帯び始めたが、それもそのはず。岸谷は姉ちゃんから借りた少女漫画etc.でたくさん勉強して必死にカッコイイ仕草を真似していたんだろうな(と考えると今では微笑ましい岸谷プロ)

page76『姉ちゃんが恋愛小説とかドラマ好きでさ 時々姉ちゃんに借りて読むんだけど 割と面白いんだよな』 <

一方で楢崎はボロボロになりながら体当たりでぶつかり合う泥臭い同性愛漫画ばかり読んでいる人間なわけで、かっこいい仕草でなんとかなってしまう少女漫画とは真逆の恋愛しか想定していない。

page105『オレが考えてた恋愛はこんなんじゃなかったんだ』 <

2人のもつ恋愛観があまりに対照的すぎて、岸谷と楢崎がすれ違っていくのは当然のこと。

個人的な意見だが、私は少女漫画の彼氏役のすかした感が凄く苦手で、その洗練された立ち振る舞いは完璧な仕草と態度をプログラミングされたロボットのようで、距離の遠さを感じる。彼らはその場で生まれた感情で動いているのではなく、予め組み込まれたロジックで動いているような気がしてしまう。 …楢崎も岸谷に対して同じことを思っていたのだと思う。だからちゃんとした岸谷なりの言葉が欲しい。そういうプロセス通りのイチャイチャじゃなくて…

  • 2.相反する欲求

学校ではイチャイチャできないから二人きりになった途端にがっつく…今見ると岸谷は年相応の高校生男子そのもの。『付き合う』=『手を繋ぐ、ハグする、キスする、と段階を踏んで最終的には…』としか考えていなそうな(笑) 高校生ってそんなものだと思う。

一方、楢崎は本当は自分では抱えきれない傷を一人で必死に引きずってきた子で、そんな彼が誰かと仲良くなったときに一番にしたいと考えることは『自分のすべてを打ち明けて傷の存在を知ってもらう』ことだろう。

ゆっくり話がしたい楢崎、そんなことしてないで恋人にしかできないことをとにかくしたい岸谷、…溝は深まるばかり。

  • 3.ついていけていなかったのはどちらか

とにかく手が早い岸谷と、半分引き気味の楢崎…104話以前では、『岸谷のペースに楢崎がついていけていない』という描写が多かったように見受けられる。

それが一気にひっくり返るのが105話。

楢崎が どんどん遠ざかる <

リレーの一連の描写が壮大な比喩を含んでいて、これまでの岸楢の軌跡を走馬燈のように思い起こさせる。

必死に追いかけて、楢崎にやっとのことで近づけたのだけど、バトンを手渡すことが出来ぬまま、今度は楢崎が自分から遠ざかっていく。

あんなに必死に追いかけたのに、やっと近づけたのに、本当の意味で心を交わすことが出来ぬまま、楢崎が自分から遠ざかっていくのだ。

高畑が足を引っかけたことによって岸谷は転倒、それにより楢崎の元までたどり着けなかったわけだが、 これも五十嵐の好きな子問題や水沢さんとの過去の色恋沙汰という外部の問題が絡んできたことによって楢崎の心が離れていったことの比喩であるように感じる。

岸谷が落としたバトンを拾ってズンズン先に進んでいく楢崎は、101話で岸谷を拒絶した楢崎そのものに思える。 岸谷の零した言葉に対して『もういいよ』と一方的に切り上げて離れていく様に似ている。

まだまだ想像は捗る。

片想いをしている間は、ある意味で相手が理想化されている。 相手のことをよく知らないうちの恋心というものは、芸能人の写真を見てちょっとかっこいいと思う、そんな感覚に紙一重の感情だ。 岸谷の恋も例の女装写真から始まり、なんとなく顔が好みという理由で一心不乱に追いかけた。当初の彼は、楢崎という人間そのものというより、楢崎の静止画に恋をしていたのだろう。

岸谷はリレー中、スタート地点に立っている楢崎を目指して走り続ける。そんな『静止』している楢崎を追いかけている状態から、近くまで来て立ち止まってみて初めて、自分の意思をもってそこに生きている楢崎を知ることができる。

あそこでつまずかなければ、追いかけるのをやめなければ、岸谷はいつまでも楢崎という人間に向き合うことができなかったかもしれない。

恋人として先に進もうとがっつくその手を止め、初めて楢崎の心を見つめた。 そんな記念すべき転機の瞬間が、このリレーでのつまずきによって描かれている。

(高畑の行動は胸糞でしかないので、せめてこうして意味のある描写なのだと解釈したい。)

Siriの記憶とアイビーロス

『アイビー沼地』というブログを閉鎖するにあたり、こちらにお引越しした記事です。2020/1/27に書かれました。

気がつけば『日曜の18時』を通り過ぎていた。

これまでは土曜の夜の時点で「明日は更新日」と念仏のように唱えながら床につき、日曜は一日中何度も時計を見ながらそわそわしていて、時計が18時を回るのを今か今かと待ち構えていた。

…それなのに、今日は作業に明け暮れていたらいつのまにか21時。 これからはアイビーが更新されることのない世界で、それでもこのルーティンを自然と忘れてこの世界に馴染んでしまうのだろうと実感した。

そんな諦観すら既に芽生え始めていたのに、…携帯を開けばこんな通知が。

…ああ…私が忘れようとしても、この携帯電話はしっかりと私のルーティンを覚えてしまっているのだ。 なんだか悲しくなった。そしてアイビーと共に過ごした長い月日に思いを馳せた。

この通知に誘われてcomicoを開いてみるも、やっぱり更新はない。

依然、最終話が最新話。

【南ビール】page121『勝馬が笑った時』アイビーの主題とこの世の希望【アイツのBLマンガ】

『アイビー沼地』というブログを閉鎖するにあたり、こちらにお引越しした記事です。2020/1/20に書かれました。

アイビーの主題は何なのか、という問に対する答は登場人物の数だけ用意できる。

度の過ぎた過ちをおかし、その罪の正当な償いすらしなかった彼が自分の罪とどう向き合うか… 悲しみの末の共依存状態をどう自覚するか、本当の意味で互いの為になる関係とは何なのか… マイノリティへの批判の中でどう生きていくか、どこまで鎖国を続けるのか… 人に執着せず上っ面の関係の中で生きてきた彼が、真剣に人と向き合いたいと願ったときにどうやって信頼関係を築いていくのか… 好きになった人に殺されかけた事実をどう受け入れ、どこに自分の居場所を見出すのか…

…うわぁ…めちゃくちゃ重苦しい。装飾を外してしまえば、こういうテーマを真剣に扱った作品だった。

アイビーに対して抱く感想というのは、どれも恋愛漫画に対する感想を逸しているように思える。 流血シーンもあったなあ。絶望で心が締め付けられた日もあったな。 それでも、どんな過去を背負おうとも、いくらでも再スタートができる。そういうこの世の希望を見せつけられた。

それだけだ…もう何も言うことはあるまい。終わりよければすべてよし。本当にそう思う。これ以上下手に考察を掘り下げたら穢してしまうような気すらする、そういう清々しさが残っている。

【南ビール】最終話の到来日にブログ開始 ~なぜもっと早く行動しなかったの?~【アイツのBLマンガ】

『アイビー沼地』というブログを閉鎖するにあたり、こちらにお引越しした記事です。2020/1/20に書かれました。

本日最終話を迎えたアイツのBLマンガだが…この期に及んでブログを始めてしまった。 BL歴は浅く、アイツのBLマンガは4作目に手に取った作品。偏食が過ぎるせいでなかなか好みの漫画を見つけられないため、今後もアイツのBLマンガに執着する気満々である。ブログ開始はそんな決意表明でもある(?)

アイツのBLマンガの更新日にはいつも長々とした感想文を書いていたものの、字数制限が面倒なのでTwitterに投稿することは少なかった。代わりに親しい友人3人のみに公開しているLINEのタイムラインになぜか感想文を投稿していた…そんな感想文の寄せ集めがこのブログになりそうな予感。

余談だが、その友人3人にはBL趣味を明かしている…わけではない。 毎週の課題は『BL漫画であることを知られないようにいかに感想を投稿するか』だった。なんでそこまでして投稿していたのか…謎。 そのカモフラージュの手段の一つとして生み出したのが『アイビー』という呼称。『アイ』ツの『B』Lマンガだから『アイビー』。 とにかく、いろいろと工夫を凝らしていた。

…でもそろそろバレてそうだな。

【囀】鳥とは誰の象徴か?~急変の7巻をふまえて~【囀る鳥は羽ばたかない 考察】

このブログは7巻読了時点で書いています。そのため7巻のネタバレを含みます。
8巻以降、このブログで想像した結果が訪れなかったとしても、このブログを改変することはありません。

鳥=矢代という見方(扉絵の解釈)

囀の扉絵にはいろいろな種類の鳥が登場する。その中でも特に気になるのが、6巻末で大空に羽ばたいていった、あの鷹らしき鳥だ。
鳥に詳しくないもので、もしかしたら違う種類の鳥かもしれないが。この鳥の登場歴は、2巻8話扉絵、6巻33話扉絵、6巻35話だと記憶している。

8話(矢代が銃で撃たれる回)の扉絵では、鷹のような鳥が血を流している。
33話の扉絵では、矢代が(8話の鳥と同じく肩から血を流す)鳥を引きずり歩いている。
ここまで聞くと、この鷹のような鳥は矢代の象徴かのように思える。

そして35話(矢代が百目鬼を追放する回)では、8話/33話の扉絵の鳥とよく似た鳥が大空へと羽ばたいていく。
百目鬼を放つと同時に鳥が飛び立つということは、一見百目鬼=鳥に思えるが…でもそれは百目鬼を手放すことで矢代自身の精神を解放したことを表しているのかもしれない。

面白いことに、7巻の扉絵には鳥が一切存在しない。
35話の放鳥以来、例の鳥は扉絵に姿を現さなくなったのだ。*1

40話の扉絵では、矢代が鳥の羽根を物悲しげに見つめているだけ。*2
この羽根は、あの日飛び立った鷹が残していったものだろうか?
…だとすれば、40話の扉絵が言わんとしていることは、

言いたかったことはすべて心に押し込んで、口を噤んだまま空へと飛び立ったはずが、結局あの日に囚われっぱなしの矢代

の姿なのかもしれない。

鳥=百目鬼という説(希望的観測)

だが一方で、鳥が百目鬼であるとみなせばそれはそれで面白い仮説を立てることができる。

6巻→7巻での劇的な変化といえば、矢代と百目鬼の力関係の逆転だ。
6巻までの百目鬼はとにかく寡黙で、自分の考えを言葉にすることは多くない。感情の波が激しい矢代に対して何も言えず、ただ従うばかりなのだ。
ところが7巻では、激変した百目鬼が積極的なアプローチを見せる。むしろ矢代の方が百目鬼を前に何も言えなくなる描写が目立つようになった。

6巻末の『飛ぶ鳥は言葉を持たない』では、何も言えずに矢代の元を去る百目鬼が描かれている。
そしてこの作品では、『飛ぶ鳥は言葉を持たない』の対義語である『囀る鳥は羽ばたかない』はまだ回収されていない。

6巻末の百目鬼が寡黙な『飛ぶ鳥』なら、7巻以降の百目鬼は『囀る鳥』なのではないか?
何も言えずに去るしかできなかった鳥は、今度こそ矢代の元から羽ばたこうとはしないのかもしれない。…これもまた一つの希望的観測だ。

*1:代わりに現れたのが檻に閉じ込められた新たな鳥(オウム?)。今までと打って変わって自制して生きる矢代の生まれ変わりにも思える。

*2:余談だが43話の扉絵は、40話の矢代に百目鬼が寄り添う形になっている。

【窮鼠】幸福観の押し付けへの問題提起【映画『窮鼠はチーズの夢を見る』のメッセージ性】

エンドロールが流れた瞬間、救いのある続編を渇望した。
不完全燃焼のまま呆然と映画館を後にしたあの日を忘れはしない。

"よく分からない作品"のまま記憶の隅に追いやった映画『窮鼠はチーズの夢を見る』のラストが、急に意味のあるものに見えてきたのは、某区議の発言がきっかけだった。

❂ ❃ ❅ ❆ ❈ ❉ ❊ ❋

一見すると意味がわからない、あのラストシーン。

今ケ瀬と生きていくつもりでたまきちゃんとの婚約を破棄、涙するたまきちゃんを置き去りにして家に戻ったら今ケ瀬に逃げられていて、最終的にポツンと孤独になった恭一が映し出されて終わり。

不安定でフラフラと逃げていく今ケ瀬のことは諦めて、たまきちゃんと結婚した方が幸せだったのでは?

…どうしてもそう感じてしまう。予定通りたまきちゃんと結婚しておけば、すべてがうまくいっていた。今ケ瀬が"恭一の人生を自分が壊した"という罪悪感に苦しむこともなかった。

それなのに、部屋に一人ぼっちな恭一は異様に幸せそうな顔をしている。
ここで、『そもそも私達がこれまで信じてきた幸せとは何なのだろう?』という根本的な問いが生まれるわけだ。

果たして、一般的な『幸せな人生』のルートから外れた人は本当に不幸なのだろうか?

一見すると当たり前の順調さからかけ離れていて苦労が多いように見えるかもしれない、でも当事者にとってはそれこそが幸せな選択。
LGBT当事者にとっての幸福は、(悲しいことに現時点では)世間からしたらそういうものなのだろう。

このラストシーンが不幸でしかないという認識をまず捨てることが、多様性の尊重の第一歩なのかもしれない。

❂ ❃ ❅ ❆ ❈ ❉ ❊ ❋

仮に、原作通りの結末を実写化していたらどうなっていただろう?
原作の結末は実際に映画化された結末よりずっと救いがあるが、鑑賞後の感想としては『いろいろあったけど結ばれてよかったね』くらいしか出てこないのではないだろうか。

史上類を見ない高い注目度の中で、結末を書き換えてでも伝えたかったこと。それは、一般的な幸福観の押し付けを問題視する意識だったのかもしれない。

『訳が分からない』『報われないのなら観なきゃよかった』などと酷評されるリスクを孕みながら、それでも世間の幸福観を塗り替える革命を果敢に試みた。
そんな意義のある作品だと今では思う。